今日もガサガサ日和 Vol.41 バランサーとしての重い責任

2017年2月5日
ガサガサ
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先日、ひょんなことからある観賞魚降ろしの競りの現場に出くわした。パンパンに酸素充填されたビニール袋が所狭しと並べられ、築地を思わせる競りの掛け声が飛び交っている。

袋にはヒメダカ100、アオメダカ50などとマジックで書かれており、金魚や鯉など色鮮やかな魚が見える。初めてのこうした現場で楽しく見ていたのだが、そのうち、ゲンゴロウ青森15、カワバタモロコ岐阜50、ヤリタナゴ岐阜20、マツカサガイ茨城120などと出てくるではないか。

正直、「マジか。。」と心の声がついて出た。挙げた生き物はほんの一部で、養殖したもの以外にも採集した生き物や水草が産地を表示して競りにかけられていた。ゲンゴロウやカワバタモロコ、マツカサガイ、どれも生息環境の減少で、採ろうと思ってもどこでも採れる生き物ではない。私など、採れたら歓声を上げてしまう。それが、こんなに採れてしまうのか。

ペットショップに行って国産淡水魚コーナーに行けば、●●産カネヒラ一匹3000円、●●産カワムツ3匹600円などと売られ、狭い水槽にぎっしりと魚が入っている。あの魚がこんなにいる!! これにこんな値段をつけるのか!! と驚かされるものだ。私にとって衝撃的光景と言って良い。その流通の一端を垣間見た。

時に「どこでガサガサしてるかブログで紹介してよ」と言われる。ガサガサしたいと思ってくれる人が増えるのはとても嬉しいが、それはできないのだ。ネットに載せたが最後、獲り尽くされてしまうからだ。個人が少数採るくらいは影響ないが、ここに業者が入ってくると話は変わる。ネット上の情報をチェックしている「トリコ」と呼ばれる採集屋がやってきて、正に一網打尽にして採って行ってしまう。

需要があるから供給があるのであって、業者だけに責任があるとは言わない。愛好家やショップを全て批判するつもりはない。それぞれに役割はある。しかし、川や池など内水面の生き物の生息環境は狭く個体数も限られている。だから、一部の人が採り過ぎれば簡単に絶滅してしまう。いわゆる愛好家、好事家、マニアと呼ばれる人たちの欲は止まることを知らず、数を競って獲ってそれを誇ったり、本来生息していない地域に他地域の希少種を放流したりする。

オヤニラミワンド 今日もガサガサ日和 Vol,40」で書いたように、本来生息していない私の住む地域でオヤニラミが採れるのも、そういった行き過ぎた欲の結果である。

漁師や猟師といった、生き物に生かされていることを認識して生業としている人たちは、獲れるだけ獲るということはしない。来シーズン以降も獲っていけるように考えて獲る。それがバランスというものだ。

この日見た競りの現場では、少なくとも私にはそのバランスが感じられなかった。

マツカサガイやイシガイは河川改修、圃場整備の影響で個体数が激減している。マツカサガイが減るということは、そこに産卵する特異な生態を持つタナゴ類も減るということに他ならない。しかも、様々な二枚貝への産卵に対応できる外来種のタイリクバラタナゴではなく、数が激減している在来のタナゴ類への影響が極めて大きい。そのような貝が120個も採れているのだ。また、二枚貝の水槽での飼育は困難で1年くらいで死んでしまう。だから、タナゴの繁殖飼育が終われば、採取河川に戻すのが普通である。ショップで買えばそれもできない。

バランスを崩すのは、いつも人間だ。人間の都合で崩された生態系の中でも生き物は正に、生きるために生きている。にも関わらず、在来種だけを珍重し、外来種を悪役にして排除しようとする風潮もアンバランスであると私には映る。それならば人間が真っ先に排除されてしかるべき世界中に蔓延る危険種だろう。

人間の営みは、少なからず他の生き物に影響を及ぼす。それは人間という生き物の生態であって、それを否定する気は毛頭ない。ないが、その事と引き換えに人間にはバランサーとしての責任があると確信している。そしてその責任は自らの生存にも跳ね返ってくる極めて重いものだ。

私は知らなかったのではあるが、競り会場は一般客は立ち会うことができないらしく、眉間にシワを寄せて袋を眺めて写真を撮っていた私は、係りの人に見咎められ、退場させられてしまった。

本来の予定に向かいながら、改めて考えた。おぞましきはヒトという生き物の欲と身勝手さ。私にしてもそのおぞましさのど真ん中にいる1人には違いないが、ガサガサをする上で課しているルールがある。それは「買わない、放さない、採り過ぎない」というものだ。

伊藤 匠

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